瞑想の風景

瞑想が日常の風景になり、1ヶ月が経ちました。

さて、何か変化は起きたかというと、「何も変わっちゃいない。」(笑)
私も極力「瞑想をする事によってもたらされるものを期待しない、考えない」という、「執着しない状態に執着」(笑)しながら瞑想をしているせいか、適当適当。気にしてるのは「姿勢」だけ。自己流の「呼吸停止を主眼とした呼吸」をしてると、どんどん背中が上に引っ張られていく感じがします。

閉じたまぶたに、光を見るとか、そういうのはまず取り入れていません。かといって、ただ座っていても、マインドは雑念の巣窟になるので、意識を「掃除」に向けるように意識しています。
バハマランサ・ヨガナンダのように、「歓喜に満ちて」瞑想するなんて、夢のまた夢(笑)

でも。
執着しない状態に執着、していたとしても、執着しない、を試行錯誤しながら実践していく線上に「執着しない」が出現するに違いないと思うのである。瞑想事体を実践しなければ、まず、どこにも辿り着かないし、その前に「変化」や「受け入れる」気持を宇宙に表現できないのである(笑)

宇宙に表明した「わたし」と、日々生きてる私に矛盾があっては、宇宙が困惑する。そこで、私はそこら中に書き散らしているが「純粋化」が必要不可欠なんである。ちょっとした願望実現なんて、この「純粋性」だけで、どんどん叶うと思います。

では、一体何に対する「純粋性」かというと、
・自己実現として掲げた事象と、自分の本質に乖離が見られない事。
・心底、それを実現したいと強く思う事。何よりもその実現を純粋に信じること。
・この信じる、というマインドには「疑惑」も「疑念」も存在しない。
・そして望む結果が、実は自分に内在すると「知った」状態。

こんな感じかな。

人の性格によって、「かる~く」感じて実践していく人もいるし、歯を食いしばってコツコツの人もいて、誰か他人を探して、そいつに実務やらせようという人もいて。何でもいいのです。自分が「これ」と思う方法ならば。王道は、無いと思う。純粋性、はその個人にしか感じられないもの、達成できないもの、なのである。王道という名のマニュアルを取り入れても「のようなもの」しかゲットできないと思う。

そして、個人的な変化。
思い切り言い寄られている(爆) 普通なら無視するところだが、瞑想効果か何か「ありがたく受け入れる」方向に向かっている(爆)。むかしの私だったら考えも及ばないようなタイプ(爆)その人と一緒にいて「安心できる」という自分の直感だけを頼りに。だから細かい事は何も聞いていない。どうでもいいのだ、そんな事。(笑) その人がケンブリッジの出だろうが、Oレベル(英国では15歳から働くのが案外多いのだ。)だけであろうと、どうでもいいのだ。それよりも、私が感じた「安心感」を私は選択する。

まだ時間があまり経過していないので、詳しい事は知らないが(笑)、魔術師とかの世界には全く縁の無い人のようだ(爆) しかしながら、関心の無い人から見たら「怪しさ満載」(笑)の私の本棚を熱心に見ていた。何も言わなかったけど(笑)
この人は、きっとどんな事があってもあまり影響されず、静かに微笑んでるのかな、と思ったりする。そして「意図的」な何かを全く感じないところも、私は気に言っている。

平たく言えば、「意欲ゼロ」みたいな人で(笑) 何をするにも私の意見を求めるのである。かといって何でも受身かというとそうでもなく、デートなんかはちゃんと自分で提案してくるが。日にち、とか、行く先とかは私に決定権が。
コントロールされるのを極端に嫌がる私には、もってこい(笑) さて、これもどうなっていくんだかね(笑) とりあえず、「ロマンティックな」誕生日、クリスマスは無かったけど、バレンタインには間に合いそうです。メモリー・オブ・芸者でも観に行って、日本学習してもらおうかな?(笑)


友人宅の庭先のパペチュア。私の好きな花。

d0025733_21152317.jpg

[PR]
by almarai | 2006-02-06 21:15 | 修行日記
<< 全ては自分の中に答えがあるって... チャイニーズニューイヤーとイス... >>